出身地とは 県 市 4

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私が子供の頃にアトピー性皮膚炎になった体験をもとに、子供時代からの回想録と、家族との日々を交えながら、アトピーやアレルギー症状を改善させるための「玄米・自然食実践法と、実践料理」をご紹介していきたいと思います。, 40歳でzumbaに出会い、42歳でインストラクターデビュー。40歳をきっかけにいろんなことが変わっていった主婦の想いを書いてます。 I'm from Kanagawa prefecture Yokohama city. お花好きです。お庭のことなんかも。, ショアジギングやオフショアジギングをメインに活動しています。タコ釣りやハゼ釣りブラックバス、渓流釣りなど釣りが趣味というか生き甲斐。まだまだ未熟者ですがこのサイトを通じて技術や知識をUPしたいです!GIJIE専科をよろしくお願いいたします!, 家族を幸せにする女性を応援しています。25年間夫と共に年商7.5億円のレストラン経営。2015年に倒産。その傍ら3,000人以上にカウンセリングやセミナーを行う。 恋人、夫婦、あるいは人間として、倖せになれる考え方や、アドバイスがあれば、どんどんトラックバックしましょう。 先日、息子が彼女にプロポーズして、相手両親に挨拶に行きました。彼女は一人娘で、彼女の父親から、氏名だけでも彼女の姓を名乗ってもらえないかと言われたと息子より相談の連絡がありました。まだしっかりと話はしていないので、息子の考えや彼女の考えもわかりませんが、いずれこのような相談があるだろうと私自身前... ホットペッパーのGotoイート終了予告が出ましたが、今から今月の残り日数全てに予約を入れてもポイントは入りますか?ほぼ毎日キャンペーンを利用しているのですが、先ほど予約受付の終了予告が出ました。 とありました。 6,278,... 東京都の提携都市 一覧(国内) そんなに早く終了すると悲しいです( ; ; ). 静岡県 結婚したことを後悔しています。私と結婚した理由を旦那に聞いてみました。そしたら旦那が「顔がタイプだった。スタイルもドンピシャだった。あと性格も好み。」との事です。 大山ダムに「進撃の巨人」 諫山さん、エレンら3人の銅像除幕 大分県日田市出身の漫画家諫山創さんの人気作「進撃の巨人」の主人公 … 2018/10/13 ブラザー・トム(Bro.TOM) 歌手、俳優、タレント. 私はそれを聞いて最初は嬉しかったけど、だんだん不安になってきました。 千葉県 新潟県 だからこそ伝えられることがある! そんな貴方のために、私が読書から得られる知識と貴方に役立つ考え方を紹介していくブログです。, カンボジアで暮らすフリーランサーです。ストレス発散のために飲んだお酒や、実験的に作ってみた自家製果実酒のレシピなどを紹介しています。, ちょいマイナージャンルにハマりがちな超ポジティブ成人済女オタクの日記です。なぜかお友達がほとんどいません。その時ハマったものに関していろいろと軽率に挑戦しています。何でも超初心者です。忘れっぽいので自分でも参考になるように書いています(笑), 20/09/01に潰瘍性大腸炎の診断を受けてからの日記みたいなもの。若い人がなると思っていたけどそんなことなかったっ。不安な事、伝えたい事、愚痴w。考え方、人それぞれ。アドバイス頂けたら嬉しいです。 ... 全国の男女200名を対象に、「行ってみたい東京都の観光スポット」を投票形式でアンケート調査! よろしくお願いします 佐賀県 【調査対... 全国を対象に「埼玉県と聞いて思い浮かぶもの」というアンケートを実施。 気になります, ぐるなびとホットペッパーとeparkのgo to eatの使い方の違いを教えて下さい。ちなみ、eparkしか使ったことがありません。, 英検3級の二次試験を受ける事になりました。 クリスチャンとしての品格の磨き方を 【至急求む】 出身地の述べたいときの言い方 例えば、「神奈川県横浜市出身です」「神奈川県箱根町出身です」などと言いたい場合は I'm from Kanagawa prefecture Yokohama city. 稀勢の里 寛(きせのさと ゆたか、1986年〈昭和61年〉7月3日 - )は、茨城県牛久市出身[6](出生地は兵庫県芦屋市[7][8])で田子ノ浦部屋(入門時は鳴戸部屋)に所属した元大相撲力士。第72代横綱(平成期に横綱昇進を果たした最後の横綱)。現在は年寄・荒磯。, 本名は萩原 寛(はぎわら ゆたか)、愛称はハギ、キセノン[1][2]。身長188cm、体重178kg、足のサイズ32cm、血液型はB型。趣味はスポーツ観戦。好きな食べ物はのっぺい汁、焼き鳥、フグ刺し、紀州南高梅[4]、茶碗蒸し[9]、からつバーガー[5]、ホヤ[10]。茨城県龍ケ崎市立松葉小学校、同市立長山中学校卒。, 得意手は左四つ・寄り・突き・押し、左突き落とし。締め込みの色はナス紺。左利きであり、練習により両利きになったが今でもおもに左手を使う[11]。いわゆる「花のロクイチ組」の1人[12]。スポーツニッポン評論家(大相撲担当)[13]。, 1986年7月3日に兵庫県芦屋市で父・萩原貞彦と母・裕美子の間に生まれ、「寛」と名付けられた。きょうだいは1歳上の姉。名前の「寛」を「ゆたか」と読むのは「ひろし」より語感がいいという父の思いからである[11]。生まれたときの体重は3,600gであったが、乳児期から食欲旺盛でもらい乳までして育った[14]。萩原が2歳のとき、一家は茨城県龍ケ崎市に移住。「丈夫な体に育つように」と両親からは清涼飲料水やスナック菓子は一切与えられずに育ち[15]、母からはさまざまな手料理を振る舞われた[16]。龍ケ崎市在住時代、龍ケ崎市総合体育館近くの山にある140段の階段で足腰を鍛えた[17]。, 父方の祖父は画家で、父・貞彦は祖父が62歳くらいのときに生まれた。父方の祖父は東京の中井から疎開して群馬県太田市に行ったが、ずっと東京が本籍であった。祖父が画家として働き盛りのころは、戦後日本人の多くが絵を買う余裕がなかったため、米軍兵を相手に肖像画を描いて商売した。曾祖父は彫刻家であり、このことから萩原家の家系は芸術家の家系であると言える[14]。しかし画家の子の父はかつて本格的にボクシングに取り組んだ格闘家であり、脱サラしてIT関連の仕事を始めた経験を持つ[15][14]。, 萩原が中学2年のときに一家は牛久市へ引っ越したが、その後も龍ケ崎市の中学校に通う。牛久市で過ごしたのはわずか1年あまりであり、出生から入門までの間そのほとんどを龍ケ崎市で過ごしている。出身地が牛久市とされているのは、部屋入門時の住所地が牛久市であったことによるものである。寛は幼少期から相撲が好きで、小学2年のころからよくテレビで観戦していた。相撲は同じころから始め、初めて廻しをつけた地元の相撲大会では上級生5人に勝ち抜き優勝。父によると、その次の日に朝礼で表彰を初体験したことが相撲を行う大きなきっかけになったという[14]。, 小学校4年生から野球もやっており、能力も高かった。小学生時代は捕手を、中学1年からは投手を務め、中学3年のときには常総学院などの強豪校からの勧誘もあったが、「自分はでかいだけ。野球はうまくない」という理由で断った[18]。中学3年野球地区予選で右手首を脱臼骨折、1か月以上も二の腕までギプスで固定された[11]。中学時代には美馬学(現プロ野球ロッテ投手)との対戦もあった[19]。中学時代の野球部の監督は野球部員としての寛を「長身の本格派。器用さもあった」と語っており、大関時代にも本人がトークショーでそのころの自分を「技巧派」などとふざけ半分で語ることがあった[20]。父親としては、中学時代は柔道をやらせた方がよかったそうだが、中学校には柔道部がなかったので野球部にしたという[14]。, 出身中学で2、3年次に担任をしていた教員の証言によると、「アンバランスな印象の子でした。見た目は大人以上に大きいのに、中身は子供なんですから。わんぱくでしたよ。男子はよく休み時間にじゃれあって遊びますが、ほかの子より腕力が強いとか、体格が良いとかを忘れるんでしょうね。相手を泣かせてしまう。それで叱ると、涙をこぼすんです。でも、彼は男子の間で人気者でした。人を笑わせたり楽しませたりすることが大好きで、掃除をさぼることがあっても憎まれない。スポーツが好きで、部活や体育祭に一生懸命に取り組む。給食もたくさん食べる。そんな子です。体は大きいけれど、普通の中学生でしたよ」とのこと[21]。, 角界入りを考えたのは中学2年生のときであり、鳴戸部屋を訪ねた際に鳴戸からは「これは、末は大関横綱に必ずなる。ぜひ入門してほしい」と太鼓判を押された。入門にあたって難色を示す両親や中学の先生を鳴戸親方が熱心に説得して実現し、萩原親子は他の部屋を回ることなく入門を決めた[16]。, 中学卒業後に鳴戸部屋に入門。入門の関係上、中学校は3年生の2月上旬までの登校となった。入門前から力士としての自覚は持っていたようであり、中学の最後の登校日にサインを求められると一人前ではないからと断った[22]。卒業文集には「努力で天才に勝ちます」と書き残している[23]。入門の際、母からは入門後3年は相撲を続けて家に帰ってこないようにと言われて送り出された[16]。, 勧誘の際に両親を交えて13代鳴戸と食事を行ったが、焼肉に始まる豪華な食事を次々と平らげ、「食事を残してはいけない」という両親の教えを守り、焼き鮭は皮まで食べた。そのとき最後に出た料理は目玉焼きであると伝わる[24]。, 鳴戸親方が萩原の足の指を見て、「初めて見たとき、てんぐのうちわのような指をしていた」と評したほど5本の指がきれいに分かれるなど、身体的な素質が認められていた[11]。萩原は中学2年の途中から卒業まで毎晩、ちり紙を丸めたものや市販のスポンジを親指と人さし指の間に詰めて睡眠することで、外反母趾にならないように気をつけた[11]。萩原を大器と見込んだ13代鳴戸は、入門したばかりの萩原を若の里(現西岩)の付き人に指名し、若の里は毎日萩原を泥だらけになるまで稽古づけた[25]。その稽古熱心さからある親方からは、「もうやらなくていい。そのへんでやめておけ」と言われるほどであった[16]。, 初土俵から安定して勝ち越しを重ねて十両昇進へと足を進めたが、2003年5月場所で7戦全勝しながら三段目優勝を逃し、花道で人知れず涙した。その姿を目撃した朝青龍から、「その気持ちがあれば、お前は強くなる」と慰められた[26]。, 十両昇進は貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(17歳9か月)であった。ただし十両では終盤戦で頻繁に立合い変化に敗れ失速、二桁勝利を挙げられず同時に十両昇進し、十両を2場所で通過した琴欧州、豊ノ島に遅れをとったが、わずか3場所で通過した。当時18歳であった萩原(稀勢の里)の将来と過去の大横綱とを重ね合わせて見ていた相撲ファンがいたことについては、2016年9月場所前の雑誌のインタビューで記者に問われた際に、「自分はそんなこと、考えてもいませんでしたよ」と答えた。若さゆえの反発はなかったかと聞かれると13代鳴戸の厳しさを指して、「そんなことが許される状況ではなかったからね(笑)当時、自分はあってないようなものでしたから」とコメントしている[27]。, 2004年、11月場所は貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(18歳3か月)で番付を駆け上がり、新入幕を果たす。同時にこれまで本名のままで取っていた四股名を「稀勢の里」と改名した。「稀な勢いで駆け上がる」という意味を込めて師匠が提案、本人も納得してつけられた。新入幕からの1年は苦戦が続き、十両時代にもみられた土俵際で粘られてたまたま足が出て勝った相撲や体格に任せて無理矢理倒す相撲、相手の叩きにつけ込んだ相撲が多く、また土俵際の逆転を頻繁に許すなど詰めの甘さも目立ち、舞の海秀平からは「前に出て土俵際で止まることも勉強しなければいけない」と苦言を呈された。この間は最高成績が9勝6敗で、ぎりぎりの勝ち越しと負け越しを繰り返した。, 2005年、9月場所では12勝3敗の好成績を挙げ最後まで優勝争いに残り、また優勝争いの先頭だった琴欧州に土をつけ、初の三賞となる敢闘賞を受賞した。19歳2か月での初の三賞受賞は貴乃花、白鵬に次ぐ史上3位の年少記録。しかし翌11月場所は、自己最高位の東前頭5枚目で5勝10敗と大きく負け越した。, 2006年、3月場所では東前頭7枚目で10勝5敗と2005年9月場所以来3場所ぶりの二桁勝利を上げ、翌5月場所は自己最高位の東前頭筆頭で千秋楽に8勝7敗と勝ち越し、7月場所での三役昇進を果たした(19歳11か月での三役昇進は貴乃花、北の湖、白鵬に次ぐ史上4位の年少記録)。この場所は中日まで自分よりも番付が上の力士とばかりの対戦が組まれ、8日目まで2勝6敗ながらも、2大関(琴欧州、魁皇)を破るなど、9日目から6連勝し最終的には8勝7敗と新三役で勝ち越しを収めた。翌9月場所では朝青龍から初白星を上げ、8勝7敗ながらも朝青龍に勝利したことが評価され、初の殊勲賞を受賞。翌11月場所も8勝7敗と勝ち越し、幕内に昇進して以来初の年間全場所勝ち越しを達成した。, 2007年、1月場所では千秋楽に敗れて7勝8敗と負け越し、4場所勤めた小結から陥落した。翌3月場所は6勝9敗と負け越し、5月場所も6勝9敗と3場所連続で負け越した。西前頭6枚目で迎えた7月場所は千秋楽で大関昇進が確実な関脇の琴光喜に勝利するなど、11勝4敗と8場所ぶりの二桁勝利を挙げた。9月場所では小結に復帰するが6勝9敗と負け越した。11月場所では、中盤までは黒星が先行する展開であったが終盤に4連勝して9勝6敗と勝ち越した。, 2008年、1月場所2日目に2場所連続出場停止(2007年9月・11月)明けだった朝青龍に対し、朝青龍の背中について最後は豪快に土俵下へ送り倒して快勝、初の金星を獲得。10勝5敗で2度目の殊勲賞を受賞。3月場所で3場所ぶりに小結復帰を果たし、11日目に7勝4敗であったが、その後下位力士に連敗。14日目に勝ち越しを決めたものの、千秋楽に7勝7敗の西関脇の琴奨菊戦に敗れ関脇昇進を逃した。, 5月場所は初日に朝青龍に勝利するなど、10勝5敗と三役では初の2桁勝利を挙げて2度目の敢闘賞を受賞。両関脇が勝ち越したため7月場所も小結に据え置きとなり、小結在位8場所と、最高位が小結の力士としては昭和以降では富士錦の10場所、出羽錦と高見山の9場所に次ぐ記録となった(富士錦以外はその後関脇に昇進している)。7月場所は6勝9敗と負け越した。この年の夏のあるとき、8月のモンゴル巡業で顔を赤らめて現地の女性とダンスを踊っていた様子を収めた日刊スポーツの紙面が、13代鳴戸から禁止されていた「過酒、色、煙草」のうち「過酒、色」の証拠になったことから、13代鳴戸に3時間も正座させられた[28]。, 前頭2枚目に降格となった9月場所では腸捻転と診断され初日から4連敗(場所中は公表していなかった)。5日目には白鵬を破り金星を獲得したものの、12日目に負け越しが決まり、6勝9敗に終わった。この場所は出場も危ぶまれていたが、鳴戸親方から「オレは現役時代、何度も病院から場所入りした。その気になれば、相撲は取れる。いまはとても大事なときだ。オレなら休まない」と緊急入院した先の病院の枕元でささやかれ、水も思うように飲めない状態で無理をして出場したということがのちに明らかになっている[29]。11月場所は11勝4敗と3場所ぶりの勝ち越しと2桁勝利を挙げて小結への復帰が決まった。, 2009年、1月場所は初日の対朝青龍戦で敗れたあと1度も白星先行できず、7勝7敗で迎えた千秋楽で高見盛に勝利し、8勝7敗と勝ち越して初の関脇昇進を果たした。新関脇となった3月場所では5勝10敗の負け越しで、1場所で関脇から陥落した。, 5月場所は初日から5連勝するなど好調で、千秋楽まで優勝争いに加わり、日馬富士が琴欧洲に敗れて朝青龍が白鵬に勝てば「白鵬、朝青龍、日馬富士、稀勢の里での優勝決定戦 」の可能性もあったが、日馬富士が琴欧洲を破り、優勝の可能性が消えた。それでも自身最高となる13勝2敗の好成績をあげ、3度目の敢闘賞を受賞した。, 7月場所は2場所ぶりに関脇に復帰(西関脇)した。中日に朝青龍を土俵際で左からの突き落としで破り、朝青龍の全勝を止めた。9日目まで7勝2敗だったが、その後3連敗。13日目に勝ち越しを決め、最終的に9勝6敗であった。1横綱(朝青龍)3大関(魁皇、琴光喜、千代大海)を破った。9月場所は中日まで5勝3敗だったがその後4連敗し、7勝7敗にこぎつけたものの、千秋楽に把瑠都に上手投げで敗れ、7勝8敗と負け越した。11月場所は小結に陥落し小結在位が歴代10位タイの10場所となった。また23歳3か月での10場所到達は、武双山の27歳6か月を大幅に上回る史上最年少記録である。11月場所も6勝9敗と精彩を欠いた。, この年の冬、北の湖から、「まわしを締める位置が高い。へそが見えるほどの位置に下げて締めた方がいい」と助言を受けた[30]。, 2010年、前頭3枚目に陥落した1月場所は序盤5連勝と好調だったが、その後5連敗し、9勝6敗に終わった。小結に復帰した3月場所も9勝6敗と勝ち越しはしたが二桁勝利には届かず、上位陣との対戦では外国勢の白鵬、日馬富士、琴欧洲、把瑠都にはいずれも敗れている。関脇で迎えた5月場所もその4人に敗れ、8勝7敗に終わった。, 7月場所は中日まで6勝2敗の成績だったが、そこからこれまで苦手として来た力士に加え阿覧や豊真将にも完敗するなど5連敗し、千秋楽にも鶴竜に土俵際の逆転で敗れ7勝8敗と負け越し、9月場所は12場所目の小結へ陥落した。その9月場所でも把瑠都を破ったものの7勝8敗と負け越し、11月場所は前頭筆頭に転落した。11月場所、2日目には63連勝中の白鵬を寄り切りで破って連勝記録を止め、同時に自身3個目の金星獲得ともなった。最終的には10勝5敗となり、殊勲賞を受賞した。白鵬からの大金星を挙げたことを受けて、部屋では鯛を用意して稀勢の里を祝った。稀勢の里が鳴戸親方に褒められたのはこの金星を取ったときが唯一である[30]。, 2011年、1月場所は11日目に23連勝中だった白鵬を押し出しで破った。最終的に11月場所と同じ10勝5敗で取り終え、2場所連続で殊勲賞を受賞した。関脇での二桁勝利は自身初。ただし西関脇の琴奨菊が11勝を挙げたため、次の5月技量審査場所では西関脇に番付を下げた[31]。この場所では、不戦勝の琴欧洲戦を除く上位の外国人力士には全敗を喫するなど不振で、千秋楽で8勝7敗と勝ち越したが、東関脇の琴奨菊が10勝を挙げたため7月場所の番付は西関脇を維持した。, 7月場所は終盤に5連勝し、千秋楽では14戦全勝で優勝を決めていた日馬富士に土をつけ全勝優勝を阻むなど10勝5敗を挙げ、3度目の三役での二桁勝利となったが、東関脇の琴奨菊は11勝を挙げたため9月場所の番付も西関脇のまま維持となった。その9月場所は初日から8連勝で幕内では初の中日勝ち越しを決めたが、9日目に初黒星を喫し、その後も2連敗したが、12日目に白鵬を小手投げで破り最終的に12勝3敗で取り終えた。この時点では優勝決定戦による逆転優勝の可能性があったが、結びの一番で白鵬が勝ったため優勝はならなかった。しかし白鵬を破ったことが評価されて殊勲賞を受賞した。, 大関挑戦の場所となった11月場所の直前に師匠の鳴戸親方(元横綱・隆の里)が急逝。初日から4連勝の後、5日目に平幕の豪栄道に敗れる。14日目に10勝目をあげ、この時点で大関昇進の目安である直前3場所33勝まであと1勝の32勝となったが、最近6場所中5場所で二桁勝利を挙げていること、横綱白鵬に対し3勝3敗と互角であることや相撲内容から千秋楽の結果を待たずに審判部が会議を開き、臨時理事会を開催するよう放駒理事長(元大関・魁傑)に満場一致で要請し、30日に理事会の開催が決定。理事会で大関昇進が見送られた例がない(横綱昇進の場合のみ)ため事実上大関昇進が決定した。千秋楽は新大関の琴奨菊に敗れて(この敗戦により対琴奨菊戦は前年の11月場所から6連敗となった)10勝5敗に終わったが、相撲内容が評価されて技能賞を受賞した。しかし一部のマスコミ関係者などには、稀勢の里の大関昇進に対し疑問の声も存在した[32][33]。本人も千秋楽の琴奨菊戦で黒星を喫したことに関しては心底悔しがっており、2017年1月場所千秋楽にも「また千秋楽に負けて、あのときのような気持ちには絶対になりたくない」と構えていた[34]。, 11月30日の日本相撲協会理事会にて満場一致で昇進が決定し、正式に大関に昇進した。昇進伝達式での口上は、「大関の名を汚さぬよう精進します」というシンプルなもの。新入幕から所要42場所での大関昇進は史上5位のスロー記録。小結在位12場所は大関に昇進した力士としては魁皇と武双山の11場所を抜き史上最多。, 新大関の1月場所では4日目豊ノ島に押し出されて初黒星を喫する。9日目に豊真将を寄り切って勝ち越し、10日目に琴奨菊を突き落としで破り9勝1敗と好調だったが、11日目に白鵬、12日目に把瑠都に連敗し優勝争いから脱落。千秋楽は琴欧洲を寄り切り11勝4敗で取り終えた[35]。, 3月場所は初日から栃乃若と栃煌山に連敗。5日目には時天空に敗れ2勝3敗と黒星が先行し、これが響いて9勝6敗に終わったものの、8日目に鶴竜、13日目には白鵬、14日目には把瑠都に勝利するなど存在感を示した。, 5月場所、5日目妙義龍に敗れた以外は、11日目まで10勝1敗で次点とは2差つける単独トップに立っていた。しかし12日目に栃煌山、13日目に白鵬と2連敗。平幕の旭天鵬、栃煌山らとともに優勝争いトップの11勝3敗で迎えた千秋楽は苦手の把瑠都に上手投げで敗れてしまい、11勝4敗で優勝決定戦の出場も逃す格好となった。, 7月場所は4日目安美錦、7日目豪栄道と序盤での取りこぼしがあったのが響き、11日目に日馬富士に敗れて3敗となって優勝争いから脱落。14日目の白鵬戦と千秋楽の琴欧洲戦を連敗し、結局10勝5敗に終わった。9月場所は白鵬、日馬富士らとともに連勝を続けて大関昇進後では初の中日勝ち越しを決めたが、9日目に豊真将、11日目に安美錦に敗れて優勝争いから後退。さらに13日目からの横綱、大関戦に全敗を喫して10勝5敗にとどまった。直前の秋巡業(長野)で左足首の痛みを訴え途中休場するも(痛風の可能性もあった)[36]、11月場所は3場所連続の10勝5敗にとどまった。, 1月場所は序盤に栃煌山、把瑠都に連敗するも、そこから8連勝して12日目まで10勝2敗としたが、そこから3連敗で4場所連続の10勝5敗に終わった。3月場所は中日まで白星と黒星が交互に並ぶ4勝4敗となったが、そこから6勝1敗と盛り返して、5場所連続の10勝5敗で取り終えた。, 5月場所は初日から初の13連勝を達成した。14日目にともに全勝同士の白鵬と対決したが掬い投げで敗れて初黒星。翌千秋楽も琴奨菊に一方的に寄り倒しで敗れてしまい13勝2敗、念願の幕内初優勝はならなかった。それでも5月場所後、理事長の北の湖は全勝で優勝した白鵬と2勝差ながら、「優勝に準じる成績」であるとして「翌場所でハイレベルな優勝をすれば横綱昇進の可能性もある」との見解を示した[37](ただし伊勢ヶ濱審判部長(元横綱旭富士)は「今はそういう考え(綱獲り)はない」と、北の湖理事長の発言とはまったく相違の意見を述べている[38][39])。, 7月場所前、「13勝以上の優勝なら横綱昇進も」と北の湖理事長が公言するなか[40] 、栃煌山との出稽古での負け越しや[41]日馬富士との稽古で右足の痛みを訴えるなど不調が伝えられた[42] 。7月場所は3日目栃煌山に突き落とされて初黒星を喫し[43]、5日目は千代大龍に送り出された[44]。7日目、豪栄道に寄り切られて3敗目で、綱獲りは消滅となった[45][46]。その後8日目からは7連勝、14日目には白鵬を寄り倒して連勝記録を43でストップさせている。「今場所12勝挙げれば来場所綱獲りに繋がる」と北の湖理事長が明言するも[47] 、千秋楽はまたしても2場所連続で琴奨菊に完敗してしまい、結局11勝4敗、綱獲りは白紙に戻った[48][49]。, 9月場所は3日目に隠岐の海に敗れ、9日目には先場所に引き続き千代大龍に突き出されて2敗。13日目に豪栄道に押し出されてしまい3敗目となり、14日目に白鵬との直接対決で敗れ、白鵬の27回目の優勝が決定した(「白鵬に髷掴みの反則があった」と物言いがつくも結局軍配通り)。千秋楽は鶴竜を寄り切って、2場所連続で11勝4敗。, 11月場所は3日目に安美錦に、中日には豪栄道に敗れて2敗となるが、13日目に日馬富士を寄り切り、14日目には白鵬を上手投げで、全勝を並走していた両横綱を破るが、優勝の可能性は14日目で消滅。しかし千秋楽は鶴竜を寄り切り13勝2敗とした。場所後北の湖理事長は、13番勝ったこと(優勝した日馬富士とは1差)、両横綱に土をつけたことを評価して「優勝に準ずる成績」にあたるとし来場所(2014年1月場所)が綱取り場所になることを明言。目安について「優勝しないと駄目。13勝以上の高いレベルが求められる」と述べた[50]。2013年12月26日には、師匠が田子ノ浦に名跡変更したことでそれまでの鳴戸部屋の施設が使えなくなったため、新施設を東京都江戸川区東小岩に新設するまでの約半年間の予定で、同年10月に閉鎖された三保ヶ関部屋の施設を借り受け、部屋を東京都墨田区へ急遽移転する必要に追われた。このことから満足な調整ができたとは決して言えず不安な状況のなか、2014年1月場所を初めて田子ノ浦部屋所属力士として迎えることとなった[51]。また、この年は綱取りと優勝は出来なかったもののすべての場所で二桁勝利以上を記録した。, 2013年末のお家騒動が祟ったのか、2度目の綱取り場所となった2014年1月場所は乱調に終始し、初日の豊ノ島戦で早くも敗れた。5日目に碧山、中日に栃煌山に敗れ3敗目を喫し、この時点で理事長が提示した「13勝以上の優勝」の条件を達成できなくなった。続く9日目の豊響戦で4敗目を喫したことで、綱取りを来場所につなぐことも不可能となった。そればかりか12日目の琴欧洲戦では場所前から痛めていた右足親指を悪化させ[52][53]、13日目の白鵬戦で6敗目を喫したことで連続2桁勝利も10場所でストップした[54]。そして右足親指負傷が限界に達し、千秋楽に「右母趾MP関節靱帯損傷で約3週間の安静加療を要す」との診断書を協会へ提出して休場に至った。通算連続出場は953回で途切れ(千秋楽の琴奨菊戦は不戦敗)、同時に7勝8敗と負け越しも決定した[55]。場所後には珍しく実家に帰省し、3日間程度はとにかく寝て過ごしていた。気持ちが切れたかのように寝続けていたため、会いに来た知り合いも帰ってしまったという[30]。休養期間中はジムなどでトレーニングを行い、2月10日から相撲の稽古を再開した様子が伝えられた[56]。, 自身初の大関角番で迎えた3月場所は、10日目に勝ち越して角番を脱出したが、11日目から横綱・大関陣に3連敗、千秋楽も豪栄道に敗れて結局9勝6敗に終わり、存在感を示せなかった。場所後は「悔しい」「完全に負けた感じだった」と、胸のうちにある苦い思いを明かした[57]。, 5月場所は4日目碧山に押し出され初黒星を喫した以外は11日目まで白星を重ねたが、12日目に優勝争いトップの1敗同士の対決となった横綱白鵬戦では、一方的に寄り切られ2敗に後退。14日目は横綱日馬富士戦では日馬富士が稀勢の里の髷を引っ張る反則負けで白星[58]、千秋楽の鶴竜戦でも一方的に突き出して13勝2敗の好成績を挙げ、結びの結果を待った。しかし結びの一番の白鵬-日馬富士戦は白鵬が勝ち優勝を決め、またしても優勝次点に留まった。尚北の湖理事長は「今年の1月場所では負け越し、3月場所も9勝の一桁勝利が引っかかる。次の7月場所は仮に全勝優勝でも横綱昇進への諮問をするかどうかは不明」と綱取りには否定的なコメントを述べていた[59]。, 7月場所は全勝レベルのハイレベルな優勝なら綱取りも、と期待されて三度目の綱取りに挑戦したが、2日目早々安美錦に敗北。全勝というハイレベルな成績をクリアできなかったため、この段階で綱取りの可能性はほぼなくなる。さらに中日は苦手の関脇・豪栄道戦に敗れ2敗に後退し昇進が完全消滅。その後も不調で次場所への綱取り継続もできなかった。11日目の玉鷲戦でようやく勝ち越し、13日目には横綱白鵬を小手投げで下したが、日馬富士・鶴竜に敗れ9勝6敗と一桁勝利に終わり、3度目の綱取りも失敗に終わる。, この年の秋ごろから体幹トレーニングに着手。触診したトレーナーによるとさまざまな部分がかなり痛んで弱っていたが、一からのリセットの決意で週3回から4回、体幹トレーニングのためにトレーナーの元へ通い、力を養った[30]。, 翌9月場所は2日目に碧山に不覚を取り黒星。その後6連勝したが、9日目に新大関・豪栄道に敗れ2敗に後退ののち、12日目の白鵬戦まで4連敗。13日目の大砂嵐戦でようやく勝ち越したが、2場所連続の9勝6敗に留まった。続く11月場所は9日目に勝ち越しを果たしたものの10日目から黒星と白星を交互に繰り返し、11勝4敗で場所を終えた。, 1月場所は3日目照ノ富士戦・9日目琴奨菊戦で黒星、10日目の遠藤戦で勝ち越し。10勝2敗で迎えた13日目の白鵬戦で一度は取り直しになるも、取り直し後の相撲で押し倒され、白鵬の史上単独1位の33回目の優勝を許すこととなった。14日目の鶴竜戦は勝利したが、千秋楽に日馬富士に敗れ11勝4敗。3月場所は序盤の3敗が響き、11日目に勝ち越したものの、その後も栃ノ心と両横綱に3連敗。千秋楽の琴奨菊戦は勝利して9勝6敗の成績だった。, 5月場所も4日目から栃ノ心・妙義龍に2連敗したが、11日目まで2敗を守り、1敗の白鵬を追う立場で優勝争いに加わった。12日目に照ノ富士に敗れ3敗となったが、その日に白鵬も敗れたため1差は変わらず。13日目に日馬富士に敗れ4敗に後退したものの、14日目には白鵬を5場所ぶりに破った。千秋楽には3敗の照ノ富士の勝利によって優勝の可能性は消滅したが、それでも琴奨菊を破り、11勝4敗で取り終えた。7月場所は9日目に新大関・照ノ富士に押し倒されて3敗に脱落。13日目に横綱・鶴竜を寄り切ったものの、14日目に横綱・白鵬及び千秋楽に大関・豪栄道に連敗し、結局10勝5敗に留まった。9月場所は初日から4連勝したが、5日目に栃煌山に敗れて初黒星を喫し[60]、9日目に隠岐の海[61]、翌日の琴奨菊戦も敗れて3敗へ後退、14日目の鶴竜戦で4敗目を喫し、優勝争いから脱落。11勝4敗で終えた。11月場所は2日目に嘉風に敗れたものの、それ以降は白星を重ね、9日目に照ノ富士を寄り切って勝ち越し[62]、1敗を維持していたが、翌日から4連敗を喫し10勝5敗で1年を終了した。, 1月場所は初日の安美錦戦でいきなり黒星、8日目に日本出身力士として10年ぶりの幕内最高優勝を果たした琴奨菊戦にもいいところなく敗れ3敗に。14日目の白鵬戦でようやく勝ち越したものの、9勝6敗と二桁勝利を継続できなかった。, 3月場所は好調で、初日から10連勝を記録。しかし11日目に1敗の白鵬に敗れ、勝ち星を並ばれると12日目の日馬富士戦も敗北。星の差1つで白鵬を追う形となり、残りの取組は全勝で終え13勝2敗としたが、白鵬も敗れることなく優勝次点の成績だった。先場所優勝次点のため、八角理事長に「相当いい雰囲気が出れば」とハイレベルな優勝なら綱取りも議論になる[63]とされた。, 5月場所は4度目の綱取り場所となり、初日から連勝を続け琴奨菊との幕内史上最多60度目の対決を寄り倒しで制して10連勝を記録[64]。その後も連勝を続けていたが、13日目に横綱白鵬との直接対決で立合い得意の左四つに組むも下手投げで敗れ連勝がストップし、敗因について「見ての通り」と語った[65]。対戦相手の白鵬は、「相撲の神様がきょうは私にほほ笑んでくれた」「勝つなら勝ってみい、それで横綱になってみろという感じ」と語り、「誰かが言っていたね。『強い人は大関になる。宿命のある人が横綱になる』と。何か足りないんでしょう」と説いた[66]。翌日も横綱鶴竜に寄り切りで敗れ連敗し、白鵬に千秋楽を待たず37回目の優勝を決められた[67]。千秋楽は日馬富士に押し出しで勝ち、2場所連続での13勝で綱取りを来場所につないだ[68]。また、14勝なら優勝を逃しても横綱昇進の可能性もあったが、13勝に終わりそれもできなかった[69]。横綱白鵬から「日ごろの行い、日ごろの考え方。相撲だけ努力しても駄目」と土俵外での意識も磨くように言われたことを受け、「自分は力士として生きているから、土俵の上でしか表現できない。結果を残していないから。結果を残して、しっかりやることが自分の使命」と発言した[70]。, 7月場所は5度目の綱取り場所になるも、けがにより休場する可能性が一部スポーツ紙により報道された[71]。無事に出場し、初日から4連勝するも5日目に栃煌山に黒星。6日目の妙義龍との一番は一度軍配が妙義龍に上がったものの物言いがついて協議の結果判定が覆り辛くも勝利する[72]。その後、横綱鶴竜、大関琴奨菊が休場。9日目は白鵬・日馬富士ともに敗れ2敗。稀勢の里は1敗を維持する。だが10日目に松鳳山に左を差すと見せかけて右に変化され2敗に後退[73]。2敗同士で13日目に日馬富士と直接対決を迎えるが日馬富士の激しい攻めに圧倒され3敗に後退。しかし、14日目に待ったがかかり取り直しとなった一番で白鵬を土俵際の逆転で下し、優勝への望みを千秋楽へ残した。横綱昇進について審判部友綱副部長は、「相撲内容がよくないため、決定戦になっても勝って優勝以外では横綱への昇進は厳しい」との見解を示していた[74]。千秋楽は7勝7敗で勝ち越しをかけて臨んだ豪栄道を押し出して12勝目を記録するも、日馬富士が白鵬に勝利したため決定戦にはならずに優勝を逃し5度目の綱取りにも失敗した。それでも優勝次点の成績だったことを評価され、来場所も引き続き綱取りの場所となることが明言され、二所ノ関審判部長は「優勝すればみんな納得する」と語り、八角理事長は「よくやったと思う。最後の最後まで優勝争いをした」と評価し「来場所もいい成績を残して欲しい。やっぱり、優勝がほしいね」と語った[75]。大関での3場所以上連続12勝以上は、15日制以降では13人目で旭富士・武蔵丸の2回を含めて15度目の記録であり、日馬富士、鶴竜らも昇進後3場所以上連続での12勝以上はないため横綱級の活躍と評価された[76]。, 9月場所は6度目の綱取り場所となったが初日に隠岐の海にいきなり黒星。翌日は白星も、その翌日に立合い変化されて栃ノ心に不覚をとり2敗に後退。優勝争いから後退するもその後は4日目から7連勝。逆転優勝をかけて11日目に初日から連勝を続けていた豪栄道との直接対決に挑むも、渡し込みに屈して敗れ3敗に後退し、優勝争いから脱落し6度目の綱取りも失敗に終わる。残り全勝で12勝なら来場所への綱取りがつながると明言されるも[77]、13日目に鶴竜に下手投げで転がされて敗北し綱取りは振り出しに戻り年内の横綱昇進がなくなった。八角理事長は「仕切り直しだよ」と白紙に戻すことを明言し「ずっと綱取りと言われて、精神的な疲れもあったのでは。リセットでいいんじゃないのか」と気遣っていた。稀勢の里は支度部屋で疲れた様子を見せ「まだまだだね」と自らの敗北を嘆いた[78]。この場所は結局千秋楽に照ノ富士を寄り切りで下し10勝5敗で場所を終え、豪栄道が全勝で初優勝したため、現役大関で優勝経験がないのは稀勢の里のみとなった[79]。千秋楽後、稀勢の里は今場所について「(二桁勝利)それだけでしょうね。あとは何もいいとこない」と述べた[80]。また、今場所の主役に躍り出た豪栄道を囲んで万歳三唱が行われた東の支度部屋の片隅で、稀勢の里は自身を取り囲む記者を見渡しながら「来場所から見ない顔もいるでしょうね」と自嘲気味に笑っていたという。それでも最後は「まあやることは変わらないですし。しっかり頑張るしかない」と再出発を誓っていた[81]。今場所について八角理事長は「あきらめずに努力すれば、いつか必ず結果は出る。焦る必要はない」、二所ノ関審判部長は「もう1度、立て直してほしい。力はあるわけだから」と再出発になった綱取りへ励ましていた[82]。また、この場所は12勝、13勝なら優勝を逃しても昇進を推挙していいのでは、との声も横綱審議委員会にあったというが、10勝に終わりそれも叶わなかった[83]。, 10月4日に両国国技館で開催された第75回全日本力士選士権大会では優勝を果たし、好調ぶりをアピールした[84]。, 11月場所は年間最多勝をかけて挑む場所になり、もしも優勝なしで受賞なら史上初の珍事となる。尾車親方は「3横綱がいて1年を通して一番勝っているのだから十分、綱の力はあると言える。これを評価するのも大事じゃないかな。規約があるから駄目だけど、議論があってもいい」と最多勝で優勝なら横綱資格とも言われながら場所に挑み[85]、初日から連勝するも3日目に遠藤に敗れ早くも黒星。その後白星をふたたび重ねていたが7日目に正代に土俵際で押し出されて敗れ2敗目を喫した[86]。さらに、年間最多勝争いでも1勝差だった日馬富士がこの日勝利したため、同数で並ばれてしまう[87]。しかし、この場所で綱取りを狙っていた豪栄道を倒し3敗に後退させ、さらに横綱白鵬を土俵際脚一本で残しそのまま逆転で勝利して勝ち越しを決め、2敗をキープして優勝争いに絡む[88]。さらに全勝だった横綱鶴竜を小手投げで破る。その翌日も、この場所初日で負けたあと10連勝し1敗で優勝争いに絡んで、さらに年間最多勝争いで並ばれていた横綱日馬富士との60回目の対戦を寄り切りで倒し、この年67勝目と自身の2013年の68勝に次ぐ勝ち星で年間最多勝争いでもリードを奪う[89]。しかし、この場所3横綱を撃破する活躍を見せるも格下平幕相手に2敗したことが大きく響き、審判部副部長の友綱親方に競馬で例えて「稀勢の里は走り始めたら強い。ただ、ゲートを出るまでが…」と言われてしまうなど平幕に簡単に星を落とすことを嘆かれていた[90]。そうした心配が的中したか13日目に先場所、立合いに変化されて敗れている平幕の栃ノ心に下手投げで敗れ3敗に後退し[91]、さらにこの日取り直しとなった一番で日馬富士が勝利したため、年間最多勝争いでもふたたび並ばれた[92]。前日に「内容がいい。優勝しなくても来場所が楽しみ」と絶賛していた八角理事長は「昨日までも稀勢の里。これもまた稀勢の里。だからファンが多いんだろう。何とか頑張ってね…とみんな思っている」と呟き、また来場所の綱取りについて審判部の二所ノ関部長は「もう聞かないでくれよ。帰って四股を踏めって言いたい。踏まないで休んでいるから駄目なんだ」と渋い顔で友綱副部長らも来場所の綱取りには否定的だった[93]。翌日は大関照ノ富士に勝利し年間勝利数が自己最多の68勝に並ぶ。だが、1敗の横綱鶴竜がこの日大関豪栄道に勝利したため優勝を逃した。しかし、この日に横綱日馬富士が横綱白鵬に敗れたため、この段階で史上初の優勝なしでの年間最多勝の受賞が決まった[94]。日本出身力士の最多勝は98年の3代目若乃花以来で、幕内で1度も優勝がなく獲得した力士は初めてになる。稀勢の里は自嘲気味に笑い「いただけるものは、いただいていいんじゃない?」と話した。八角理事長は年間最多勝について「地力がある証拠だ。1つくらい優勝してもおかしくないと、本人が一番思っているだろう」と称えた[95]。また、千秋楽は大関琴奨菊が二桁敗戦など不調だったため、好調だった宝富士との対戦が組まれ、この場所平幕以外には全勝だった[96]。迎えた千秋楽、平幕の宝富士を寄り切りで倒し対戦があった横綱、大関、三役力士、さらには三役経験者も栃ノ心以外には全勝で12勝3敗とし、並ばれる可能性があった年間最多勝争いでも単独での受賞を決定させる自己最多記録の69勝目を挙げた。年間を通じて好成績だったが優勝できなかったため、横綱資格の話は流れた[97]。来場所の綱取りについて二所ノ関審判部長は「1差だったらねえ」と来場所の綱取りには疑問を呈しながら、それでも「全勝とかしないと。ムードを盛り上げてください」と年間最多勝などのこれまでの安定した成績を評価した。「来場所でハイレベルな優勝をした場合のみ綱取りの可能性がある」と来年1月の初場所の成績次第とし、審判部内では、年明けの初場所で優勝すれば昇進に値するという意見も出たため来場所は綱取りとなった[98][99]。また、稀勢の里は年間最多勝を「喜んでいいのか、悔しんだらいいのか、分からない感じです」とし「いろいろ経験させてもらって、非常に成長できた1年だったと思います。また新しい気持ちで来年に向けてやっていきたい」と来場所を見据えていた[100]。優勝を逃してきたことに横綱鶴竜は「お互いに優勝争いで邪魔してる感じで。本当にいい刺激になる。こういう相手がいると頑張れる」「ちょっとしたことだと思う。やっぱり何か1つ足りないのかな。それがあれば、次の番付に上がれる力は十分ある。自分の場合は、気持ちがすごく大事なのかな」とエールを送っていた[101]。, 1月場所は全勝レベルのハイレベルな成績の優勝なら昇進と言われながら7度目の綱取りに挑むが、場所前の稽古で大関琴奨菊に負け越し、右足に違和感とも報じられるなどいきなり綱取りに暗雲が立ち込める[102]。だが、場所に入ると好調で初日から連勝を続けた。4日目の松鳳山戦では軍配のあげ間違いという珍事も起きたが、問題なく勝利した[103]。この珍判定に稀勢の里は「人間ですからね」と苦笑いしていた[104]。その後も連勝を続け、7日目には全勝は幕内で白鵬と稀勢の里のみで鶴竜は3敗、日馬富士も休場し、上位陣は白鵬を除いて全員2敗以上となり白鵬との一騎打ちの様相を呈した[105]。8日目には隠岐の海を土俵際の逆転で破り8連勝とし中日勝ち越しを記録すると、同日に白鵬が敗れたため8日目で全勝で単独トップに立った[106]。また、大関での連続勝ち越し18場所は歴代4位タイ記録となり、幕内18場所連続勝ち越しは自己最長タイ記録である。9日目に角番で2勝6敗だった大関琴奨菊との幕内史上最多62度目の対戦に寄り切りで敗れ連勝がストップしたが、同日、弟弟子の髙安が白鵬を倒す援護射撃で貴ノ岩と並びトップを維持した。10日目にはふたたび単独トップに立った。さらに横綱鶴竜が不調により休場した[107]。, 11日目には遠藤を下し、6場所連続の10勝目を挙げた。13日目には豪栄道が前日の遠藤戦で負傷し休場したため、不戦勝で労せず12勝目を挙げた。同日、2敗で追っていた逸ノ城が敗れ、弟弟子の髙安が貴ノ岩を下したため、2敗は白鵬のみとなった[108][109]。横審の守屋委員長は「いい風が吹いているように思います。苦手の日馬富士が休場したし、本来今日はヒヤヒヤして見ないといけないと思ったけど」と話した。残り2日で星を落としての優勝は「13勝だったら非常に難しい。議論して決まることだと思います」と語り、14勝や13勝2敗で決定戦勝利の場合のみ昇進の可能性があると言及した[110]。14日目は上位陣の休場が相次いだため、平幕の逸ノ城との対戦が組まれた。稀勢の里は逸ノ城を下して13勝目を挙げ、自身初の優勝同点以上が確定[111]、さらに唯一2敗で優勝の可能性を残していた白鵬がこの日初顔合わせの同じモンゴル人力士・貴ノ岩に敗れ3敗に後退。その結果、稀勢の里の初優勝が決まった。, 支度部屋にて優勝の瞬間を迎えた稀勢の里は目を真っ赤にさせながら「そうですね、うれしいですね。最後まで集中してやりたい。本当に感謝しかないです」と声を絞り出し、涙をこぼした。また11年11月に急逝した鳴戸親方(元横綱・隆の里)にささげる優勝となった[112]。また、初土俵から89場所目での初優勝であり、大関昇進後31場所での優勝は琴奨菊の26場所を超えて歴代でもっとも遅い記録になった[113]。さらに千秋楽の白鵬との一番は立合いから白鵬に一気に攻め込まれるも、土俵際で逆転の掬い投げで白鵬を下し14勝1敗で場所を終えて初優勝に花を添えた。稀勢の里は優勝後のインタビューでは「ずいぶん長くなりましたけど。いろいろな人の支えがあって、ここまでこられたと思います」と述べた。「何か一つ足りない」と言われていたものについては「一日一番って気持ちで集中して、やってきたからではないでしょうか」と必死に言葉を絞り出すと、こらえきれず涙を流し念願の優勝の喜びに浸っていた[114]。, 2017年1月場所の優勝決定後に協会審判部から八角理事長へ臨時理事会開催の依頼があり、八角理事長が横綱審議委員会へ横綱推薦の諮問を行った。, 場所終了後の1月23日に開かれた横綱審議委員会において全会一致で横綱に推挙され、それを受け1月25日午前の番付編成会議ならびに臨時理事会にて横綱昇進が決定。理事会終了後、協会から田子ノ浦部屋(伝達式自体は部屋が手狭であることから帝国ホテルにて開催)に協会理事の春日野、二所ノ関一門の年寄である高田川審判委員の2名の使者を差し向け、伝達された[115]。これにより日本出身力士としては1998年5月場所後に横綱に昇進した若乃花勝(第66代、藤島部屋→二子山部屋)以来19年ぶりに横綱に昇進し、2003年1月場所で引退した貴乃花光司(第65代、藤島部屋→二子山部屋)以来14年間途絶えていた日本出身横綱となった[116][118]。, 茨城県出身力士としては、1936年1月場所後に昇進した男女ノ川登三(第34代、高砂部屋→佐渡ヶ嶽部屋)以来81年ぶりの横綱昇進であり、1942年1月場所で男女ノ川が引退して以来75年ぶりに誕生した横綱となった[119]。先述の若乃花が引退した2000年3月場所以来17年ぶりの4横綱時代の幕を開けた[120][121]。, 横綱土俵入りは不知火型だった師匠・隆の里とは異なる雲龍型を選択[122]、1月26日に、二所ノ関一門の先輩横綱である大乃国の芝田山より土俵入りの指導、継承を受けた[123]。過去に師弟が異なる土俵入りの型をみせたのは、奇しくも大師匠の若乃花幹士 (初代)―師匠・隆の里の例だけである[124]。

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